は  じ   め  に  津なぎさまち   生徒会誌に投稿   ぐるっと津めぐり  高  田  本  山
北 畠 神 社 地 域 の 紹 介 活性化をめざして1 活性化をめざして2 ト  ピ  ッ  ク



                        
 結 城 神 社 の し だ れ 梅  
 
2月から3月にかけて境内には色とりどりの梅の花が咲き、観梅ツアーなど県外からの観光客も多い




潮干狩りで賑わう御殿場海岸

中 勢 北 部 サ イ エ ン ス シ テ ィ
津北部の約500ヘクタールの区域に、21世紀を展望した多様な機能をもつ新都市をめざして開発がすすめられているが、まだ広い土地が空き地として残っている。
ここに大企業が進出したら、津の町は産業の面でも昔の賑わいを取り戻していくだろう。


伊勢湾海洋スポーツセンター
日本でも有数の規模を誇るマリーナとして全国から注目を集めている

フ ェ ニ ッ ク ス 通 り
津の繁華街・フェニックス通りを東に向かうと高速船が就航している津港に通じている


津東高の生徒会誌に投稿

 私は三重県の高校の教員をしていて平成13年3月に定年退職した。この投稿文は退職時に勤務していた津東高の生徒会誌に掲載されたものである。(津史、三重県史などの書籍を参照して修正加筆しました)

 私は津に生まれ育ってから60年になる、気候は温暖、海や山の幸にもめぐまれ道路も広く住みやすいところだ、しかし津を訪れる観光客は少ない。
 昔の津は繁栄していた。津は古くは安濃津と呼ばれ、また日本三津(さんしん)といって九州の坊津(鹿児島県)、博多津(福岡県)とともに大きな港があり、海上基地として活気のある町を形成していた。日本の重要な港の1つとして政府の指定も受け、とくに中国との貿易が盛んに行われていたとの記録も残っている。しかし残念なことに今から500年前の室町時代(1498年)に大きな地震があり港が陥没してしまった。古代から港を通じて発展してきた津は壊滅的な打撃をうけた。
 江戸時代には津は藤堂高虎32万石の城下町であるとともに宿場町でもあった。「伊勢は津でもつ 津は伊勢でもつ」と伊勢音頭にもうたわれ、伊勢神宮参拝のため江戸からきた人々は四日市から参宮街道に入り、京都からきた人々は伊勢別街道を通り津北部にある江戸橋付近で参宮街道で合流し、津を通り抜け伊勢に向かった、そのため街道沿いには旅館や茶店が立ち並び、津は大変賑わったという。城には、現在も大きな石垣が残っており、当時の繁栄ぶりがしのばれる。城のまわりに大きな外堀があったが残念なことに第二次世界大戦で津の中心部が爆撃をうけ、その時の瓦礫を堀に埋め内堀はほとんどなくなってしまった。
 また戦前には津から林(芸濃町)、久居、川口(白山町)などに多くの軽便鉄道が走っていて、私は小さい頃に軽便に乗った記憶がかすかに残っているが、細いレールに小さな車体、現在も残っていたら観光に一役買えるかも知れない。
 江戸橋から阿漕浦を経由して松阪まで近鉄伊勢線も走っていたが、乗客減少を理由に1961年(昭和36年)1月、廃線となり市民に惜しまれながら電車からバス輸送に変わってしまった。そのバスも車社会の到来とともに乗客も少なくなってきている。
 津は文化都市である。芸術などの文化活動がさかんで今後も美術館、総合文化センターを中心に発展していくだろう。また津ボートには県外から多くの競艇フアンが津を訪れているが、競艇以外で津が観光客のくるような都市にはならないものだろうか。親戚の人が津にきても名所旧跡が少なく案内するのにとまどってしまう。
 私は小学校時代に「未来の長谷山」のパンフレットをみたことがある(長谷山は津市西部にある標高300mの小さな山でハイキングコースになっている)長谷山が一大遊園地として開発され、上空にはヘリコプターが舞う様子が描かれていたが、長谷山周辺はゴルフ場や宅地造成が進んでいるだけで、昔と変わらない。
 1994年(平成6年)9月、台風26号の余波を受けて津の造船所で建造中の貨物船2隻が造船所から流失し、近くの海岸に寄り添うように座礁したことがあった。その様子は毎日テレビや新聞で報道され、15万トンの超巨大貨物船を一目見ようとその海岸は見物客でいっぱいになり、県内外の自動車で津市内の道路は大渋滞になった、数日後に2隻が満潮時にロープで曳航されていく様子を見ていた人たちから「津の名所になるのに、惜しい」という声も聞かれた。津に連日にわたりこんなに多くの観光客がくるのは今まであまりなかった。
津の町が観光客で賑わったのは、1907年(明治40年)4月に津で開かれた関西府県連合共進会(博覧会)だった。会場は現在の津駅西の偕楽公園、博物館にかけての一帯で、期間は2ヶ月間、一日の入場者数が津の人口(明治40年の津の人口は38500人)を上回ることもあったという。遠くは九州、四国からの観光客もおりその多くは参宮をかねていた。その当時の国鉄津駅はどれほど混雑したことだろう。
また高田本山の1月に行われる法要「お七夜」では、近くの国鉄一身田駅は臨時列車をだすほど賑わった。乗客の安全をはかるため上り線と下り線との連絡通路として地下道が1926年(大正15年)に整備され、その賑わいは長い間続いた。しかしその一身田駅も今では無人化(昼間は有人)されたが地下道は現在も残っている。
 さて津の活性化にむけての取り組みを始めている民間グループもある。津東高の生徒は何らかの形で津にかかわりを持つ生徒であるから、さびれゆく商店街の問題もあり、若い力で津を活性化するにはどうすればよいかぜひ考えてもらいたい。
 私案であるが、「魅力ある津にするにはどうすればよいか」というテーマで論文を公募し、全国の人々に津に来てもらい、津をさまざまな角度から見てもらうという催しをしたら津に来る人も多くなり活性化につながるのではないかと思う。多くの人が津に来るようになればJRの「快速三重」も二輌でなくもっと増結して、またブルートレインの「伊勢・那智」号も復活して・・・・・いろいろ考えると夢は大きくふくらむのである。



津の中心、三重会館付近
数年前に大型スーパーが撤退、そのあと駐車場になってしまった

石標「宿屋町(しゅくやまち)」
江戸時代のなごりをとどめている町名が近年の住宅表示によりなくなっていくので、津市内ではいろいろなところにこのような石標が設置されている。
江戸時代には宿屋町を中心に津市内に80軒の旅館が立ち並び、参宮街道の要所として大変な賑わいだった。

谷川士清(たにがわことすが)旧宅
わが国最初の五十音配列による国語辞典「和訓栞」や「日本書紀」を注釈し、また「日本書紀通証」の著者として有名である


阿部家住宅
市内に唯一残る江戸時代の商家建築として市の指定文化財となっている「阿部家住宅」の修復工事を終え、一般公開されている。
この家は江戸時代以来、みそ、しょうゆを販売する商家で参宮街道と伊勢別街道の合流するところの江戸橋近くに建てられている。





津観音
十日観音は8月9日から10日にかけて柴灯護摩(さいとうごま)を焚き、火渡り護摩法要が行われる。







節分の日に鬼を退治して厄よけをする鬼押え節分会(おにおさえせつぶんえ)が行われ、毎年多くの参拝客が訪れている。
特設舞台から投げられた「福豆」を拾おうという人でいっぱい、境内は熱気にあふれていた。




岩田橋
津八幡宮祭礼を描いた最古の作品で、祭礼行列が岩田橋を渡っていく様子が描かれている。
江戸時代の作品であるが、350年前の木造で欄干に擬宝珠をつけた岩田橋が特に印象に残った。 


 (左 は 現 在 の 岩 田 橋)



津まつり
10月におこなわれる津まつりは、日本最大級の和船山車「安濃津丸」や唐人おどり、しゃご馬、高虎太鼓、安濃津よさこいなどのイベントがあり、県内外から多くの観光客が詰めかけている。

四天王寺
塔世橋の北詰めからすこし入った旧伊勢街道沿いにあり、創建は聖徳太子といい伝えられている。本尊の薬師如来像(重要文化財)は、平安時代の承保4年(1077年)につくられたもので、中世まではこの地方最大の寺であった。


は  じ   め  に  津なぎさまち   生徒会誌に投稿   ぐるっと津めぐり  高  田  本  山
北 畠 神 社 地 域 の 紹 介 活性化をめざして1 活性化をめざして2 ト  ピ  ッ  ク